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朝日・荒井地区 浸水警戒地域 パトロール  [庭仕事]



台風10号直撃か!という触れ込みもあり、台風10号に身構えた。われら自治会の中でも浸水しやすい地域がある。あふれると、自動車が使ったりして大事になる。過去の浸水地域をチェックしてみた。わが自治会の地域は、山あり、谷ありで良い自然環境なのだが、岩沼というように、下流の流れが悪い。今回、 雨量は時間雨量20mm以下なので、これくらいは問題なさそうだ。

雨も思ったよりは降っていないようで、安心した。



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朝日 (7A班) 浸水警戒地域 なんとか流れている。

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7A班 火の見櫓付近  浸水警戒地域





土側溝のまま





アパート駐車場と住宅地 

あふれるばかりだが、なんとか。


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浸水警戒地域 荒井 (10班、11班) ここも、今のところ 平穏か?
 

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  10班、11班  浸水しておらず。 



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朝日 (8班) 土側溝からU字溝工事を依頼中

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 まず、8班 まだ土側溝のままのところ。畑の西側



Y宅の西側



Y宅の北側





名取高校グランド方面  水流は東から西へ こっちが下流





山から流れてくるところ、8班ゴミ集積場



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朝日 (7A、7B班) 浸水警戒地域の下流


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 道路 東方向   泥水  こっちから向こうへ

いずれ、新しい道路は完成する頃には、十分な排水溝ができていることだろう。



 

 道路 西側



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荒井 (12班)  浸水対策工事 一応 終わったところ
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(12班 )改修した排水溝

うまく、こっちから、向こうへ流れている。



(12班、11班) 先の排水溝の北の端  



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あさひ野  新興住宅 遊水地
 

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藤の花の秘密 [庭仕事]

 これだけ多くある藤の花、クマバチは一度、蜜を吸ったのはどうやって見分けるのだろう。今日の観察結果。朝方は縄張り争いなのか、あちこちで二匹のクマバチが争う。普段はヘリコプターみたいに、ゆっくりしてるが、相手を見つけるとすごい速度で飛んでいく。

 さて、一度、蜜を吸われた花は「旗弁」が大きく開かれている。写真で分かるだろうか? 旗弁の真ん中下部は黄色の色なんで、開いているのは一目瞭然。旗弁が被さっているのはまだな証拠? 当たっているのかな? 

クマバチがくるまで、おしべ、めしべは左右の翼弁にはさまれた、二枚の竜骨弁の中に収まっている。クマバチが蜜を吸いに花に突っ込むと巽も竜骨も開いておしべの花粉が蜂につく。あちこちと回るうちに、あちこちの花粉がめしべにつくのだろう。風などで自家受粉にならないように、最初竜骨弁に収まっているなんて見事な営みだ。 

でも、花の数の割には、マメの出来具合は圧倒的に少ない。 受精してマメになるのは、かなり少ないようだ。 それでも、周りを見るとお、実生苗で出てきているので、世代交代は可能かな。 実を食用とするのはどうか?   DSC_3433.jpg


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クマバチの襲来 [庭仕事]

まさに初夏の陽気になった。黒竜の藤も、今年も見事に咲き出した。クマバチが5匹ばかり、藤の花に突っ込んで蜜を吸う。スズメバチのような凶暴性はないのだが、ブンブンの音は気がかりだ。でも、人間にはおかまいもなく、花を狙って蜜を吸う。今年もクマバチは健在だ。 写真ではどこにクマバチがいるか定かではありませんが。

 kokuryuu.jpg


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春過ぎて アケボノスミレを探す [庭仕事]

アケボノスミレを探す。ソメイヨシノも終わり、山がコナラの萌葱色に染まる頃。あいにくの雨模様。いつもの場所に行く。花は終わりで、葉っぱが特徴的な開き方で出てくる頃。アケボノスミレはタチツボスミレのようにあちこちにない。乾いた尾根の樹林帯の中だ。コナラの芽吹きも始まり、森の中はすがすがしい。もう、ヤマツツジも咲き出した。DSC_3393.jpgDSC_3388.jpg

 


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里山は萌葱色に [庭仕事]

里山を遠望すると、ぼやーと煙る。里山のコナラの芽吹きだ。里山が萌葱色に染まる頃。近くの街路樹はハナミズキの花が咲き出す。銀杏も芽吹いた。我が家にもいろんな花が咲くが、絶品はこれか。ミツガシワとスミレだ。ミツガシワはほとんどが葉っぱをだすが、ひとつだけ、茎を伸ばし、先に白い花を付ける。小さな花だが、写真に撮って拡大すると見事な造形だ。DSC_3378.jpg

つ葉の若葉を整理していると、乾いた庭の片隅に、紫の花を発見。つんとして可憐なスミレだ。紫の色も濃く、高貴な色だ。つんと、一人、孤高を楽しむかのように咲く。スミレと「いうスミレだ。葉っぱは無残にも虫に食べられたようだ。DSC_3375 (1).jpg

 

 


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グリーンピアのスミレに遊ぶ [庭仕事]

グリーンピアのスミレ 

スミレはまこと美しい。名前などどうでも良いのだ。としても、名前を知りたがるのもやむを得ないか?



まず、名前の分からぬスミレ。樹林帯の中、周囲にはタチツボスミレが多くあるのだが、ここだけ、一株突然変異かな?





これはタチツボスミレ そこらあたりにたくさんある。







これはマキノスミレ! 細かい花で葉っぱ上向く。シハイスミレかな?という噂もあるg、ここらではマキノだろう。

荒れ地にぽつりとある。





フイリヒナスミレ

もう時期は遅いかな? 咲いている花は少ない。咲いている場所は限定されている。群生にもなるが、今年はちらほらしか見ない。ヒナスミレはスミレのプリンセスと言われる。







帰りがけ、道路の隅っこ。小さなスミレだ。ノジスミレか? それにしては、花は立派。ヒメスミレかも?

山の中ではなく、人家の郷に咲く。






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k10年来、通うグリーンピアだけど、二つの新発見 [庭仕事]



10年来、通うグリーンピアだけど、二つの新発見だ。アズマイチゲの群生

1)アズマイチゲの群生

 ここは、ニリンソウも群落で咲くのだが、今はアズマイチゲの群落に、カタクリがあちこちで咲き出す。

2014年4月7日







2)スミレの群生

今時、スミレとは? なんというスミレ? アズマイチゲやカタクリと同じ時期に咲く、白い花のスミレ。小ぶりでかわいらしい。エドヒガンが開花の頃。

なんというスミレか? グリーンピアでは新発見 4月になってから咲き出す。





花は白く、葉は丸い。花は4月上旬 アオイスミレと同じく春一番に咲く。花は一つずつ立ち、

こじんまりして可愛いスミレ





最後にアオイスミレだ。 これは毎年のなじみのスミレだ。

  スミレの中でも最も早く咲く。4月始めだ。一見、タチツボスミレと似る


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釜神様(釜男)を彫る [庭仕事]







釜神様(釜男)は家の守り神、火の神様として旧伊達藩に多く見られる特殊な伝統工芸

旧伊達藩領のみに見られるもので、最も多いのは仙台市と一関市の間とされる。県南の岩沼にも、伝統工芸をつなごうと公民館で彫刻教室が毎年開かれている。岩沼市中央公民館の彫刻教室に参加して、始めての作品。


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蝦夷 加耶古代史観からの解析 [庭仕事]


蝦夷とは?
 前進基地ができ上がるのは、645年の乙巳の変以降だ。ついで、坂之上田村麻呂がアテルイ等、蝦夷と軍事闘争を展開していくのは桓武天皇以降、つまり平安時代初期。基本的な対立構造は? 加耶古代史観から蝦夷を解いて見る。 


東北の原始は縄文人の粛慎で、日本民族のルーツだ。粛慎は大陸中国東北部の粛慎と同じルーツだ。かつては朝鮮半島経由でもやってきただろう。継いで紀元前5世紀頃か、中国江南からの「呉」が稲作をもたらす。呉からの流れは列島ならびに半島をも北上していく。半島では高句麗が(粛慎+呉)の形で真っ先にできる。東北にも呉はやってきた。岩沼の里山にもある前方後方墳が彼らの痕跡だ。白山古墳、高舘古墳、飯野坂古墳等。先住の粛慎と後からやってきた呉は共存し、融合していく。(粛慎+呉)という南北融合型の日本人の原型が固まる。 

2世紀頃、大陸北方からの遊牧民族鮮卑系が南下して漢と融合し、(鮮卑+漢)が出来る。三国時代の魏の元となる。(鮮卑+漢)は倭と共同して卑弥呼集団となって、半島、列島に南下してくる。結果、(鮮卑+漢)は先住の(粛慎+呉)と闘争しながら、あるいは共存して、南北融合していく。東北にもやってきた。岩沼の亀塚古墳が彼らの痕跡だ。ここで、大陸蒙古からの流れと中国江南からの流れが融合することになる。この大融合の形はこうなる。((粛慎+呉)+(鮮卑+漢))となって、(狩猟採集(漁業)+遊牧騎馬+農耕)のように混合する。

この南北融合のバランスを崩そうとしたのはどの集団か? 5世紀、コムナリ加耶の出現だ。いわゆる、百済には二国あり、北の百済は(漢+粛慎)、南の百済は((漢+粛慎)+呉)の形だ。南の百済がコムナリ加耶と称する。コムナリ加耶は朝鮮半島熊津にいたが、北からの圧迫で、半島では国滅び、列島に活路を見いだす。当時、コムナリ加耶は加羅と共闘して列島へ流れる。天皇で言えば、雄略天皇の時代、コムナリ加耶が引っ張る倭国は最大の領域を誇る。
 
 5世紀になって、高麗加耶、コムナリ加耶と加羅が互いに競うように、摂津、河内に巨大な前方後円墳を築く。同時期、はるか離れた東北に、雷神山古墳のように前方後円墳が築かれる。勝利した雄略天皇の世も長続きせず、短期間でほろんでしまう。すでに任那も新羅に滅ぼされて、今はない。残るは加羅からの物部だ。欽明天皇の世だ。物部は、新羅に裏付けされた蘇我とするどく対立する。内戦の結果、物部はあえなく連合軍に討伐され、半島の加羅も新羅に滅ぼされる。


 だが、新羅は国力低下。その間隙をぬって舒明天皇の世になる。642年、コムナリ加耶は新羅から任那を解放し、コムナリ加耶は蘇我と対決する。645年、大化の改新でコムナリ加耶は任那の随伴者、安羅系の藤原と共謀して、蘇我に代表される((鮮卑+漢)+(粛慎+呉))をクーデタで倒す。コムナリ加耶と新羅加耶は敵対していたが、新羅は当時、国力低下で、新羅はコムナリ加耶の闘争を阻止できず。
コムナリ加耶は大化の改新後、仙台郡山に陸奧国府を建設、続いて、多賀城に国府を建設。

 蘇我の名前に「蝦夷」とある。この蝦夷も決して偶然ではない。蝦夷とは、東北にいた、蘇我と同じ((鮮卑+漢)+(粛慎+呉))なのだ。蝦夷とは蔑称に過ぎない。蝦夷という民族がいたわけでがない。東北への進出に大義名分をつけただけだ。列島に先住していた蘇我にかかる勢力の一掃を目論んだ。

だが、新羅は唐との交流を深め、国力を増す。ついには、672年、新羅加耶天武天皇は天智天皇のコムナリ加耶と直接対決だ。この対決をよそに、任那の随伴者、藤原氏(粛慎+呉)は静観の形を取る。壬申の乱、勃発だ。内戦の末、新羅加耶がコムナリ加耶を滅ぼす。天武天皇の新羅加耶がリードするが、新羅加耶とコムナリ加耶の融合も進む。でも、新羅系は敵も多い。何しろ、任那を滅ぼした張本人だから。反新羅系の暗躍で新羅系の天武天皇も一代限りで終わる。

794年、平安の桓武天皇の時代になって、新羅加耶の力が無くなると、コムナリ加耶((漢+粛慎)+呉)がカムバック復活する。合わせて、任那の随伴者、藤原氏(粛慎+呉)も陰の力を増す。桓武天皇になって東北への侵略は再開される。陸奧の在地勢力は789年から801年にかけて13年間に及ぶ闘争だ。ふるさと防衛で戦う。ついには坂之上田村麻呂に敗れる。コムナリ加耶は蘇我を殲滅したが、東北でも蝦夷を討伐した形だ。((漢+粛慎)+呉)対((鮮卑+漢)+(粛慎+呉))だ。コムナリ加耶の勝利で、アテルイ、モレは河内で処刑される。

 842年、武隈稲荷大明神ができるが、稲荷はコムナリ加耶系の象徴だ。コムナリ加耶の陸奧進出は進む。前九年、後三年の役まで比較的平穏な時が過ぎる。源氏は軍事力を基礎として東北の奪還に進む。もともと、源氏のルーツは物部で、蘇我と同じく((鮮卑+漢)+(粛慎+呉))だ。東北の融合の形は源氏そのものなのだ。源氏はコムナリ加耶から陸奧の奪還に挑む。

 平安末期の前九年の役(1051~1062年)」「後三年の役(1083~1087年)」は源氏がしかけた。結果、阿部氏が滅び、次いで清原氏の内紛で清原氏は滅ぶ。阿部の生き残りは、奥州藤原氏となって勝ち残る。藤原氏は任那の随伴者で、源氏は対抗できず、念願の陸奧を奪還するまでも行かなかった。奥州藤原氏が勝ち残り、奥州藤原氏の100年の栄華が進む。

中央ではコムナリ加耶の周辺に、任那の随伴者藤原氏(粛慎+呉)と((漢+粛慎)+呉)系の平家が力をつける。奢れるもの久しからず。コムナリ加耶系平家は西国に落ちる。関東にいる源氏頼朝は力を温存する。義経は平家を滅ぼす。次いで、陸奧に逃れた義経も討伐され、次いで奥州藤原氏も滅亡。やっと源氏は念願の陸奧を奪還した。


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伊勢神宮のルーツを考える [庭仕事]



伊勢神宮のルーツを考える

外宮 雄略天皇の回帰 

式年遷宮が内宮、外宮でも行われた。普段、めったに見られないご神体も、新しい社殿まで運ばれるため、なんと茶の間のテレビで垣間見ることができる。恐れ多いことだと思うが、ここで、ご神体とはなにか? 伊勢神宮の成り立ちは? (自分なりの史観で書いている。これを加耶古代史観と名付けている)

 建国のBC660年頃はどうだったのか? 大陸では春秋時代(BC770~476)の頃で、群雄割拠だ。呉が突然滅ぶのはBC473年。春秋時代の「呉」は越に滅ぼされて、人民は海を越えて新天地を目指した。この呉が列島に稲作をもたらした。この(粛慎+呉)の南北融合こそ、日本民族の基礎だと思う。

稲作の伝来については諸説あるが、山東半島から朝鮮半島へ渡ったか? もしくは、呉から海を越えて、済州島へ行き、直接、列島へ伝来したか? そこから分派したか? または黒潮の流れでやってきたか? 小学校の修学旅行は伊勢だ。伊勢は私達にとってどんな意味があるか? 

外宮は雄略22年 豊受大神宮--鎮座とある。どこからきた? 元伊勢神社は丹後にある元伊勢外宮豊受大神社といわれる。丹後も加耶と関係ありだ。 雄略22年はどんな時代なのか? 雄略21年(476年)はコムナリを百済にあたえて国を救い興した時、雄略の故地を百済に明け渡して倭国へ回帰する時である。雄略22年、コムナリ加耶の回帰の時に神も伊勢に鎮座し、外宮はコムナリ加耶の神となる。

コムナリ加耶=(漢+粛慎+呉)は弥生人の渡来、稲作伝来ルートを象徴している。BC453年、呉が突然滅んで、民は新天地を目指して船出した。内宮の天照大神の食事をつかさどる神には最適だ。内宮には天照大神の他に、月読尊も祀られている。月読尊は、伊勢に古くから呉の民が到着したことの証しでもあるだろう。

 

内宮 高麗加耶の回帰

一方、内宮はどうか? 外宮よりもややこしく難解だ。伊勢が初めて出てくるのは天孫降臨時だ。例えば、ある書第一 高麗加耶の天孫降臨を参照すると、高麗加耶(粛慎+呉)が半島から回帰する頃か、洛東江河口の賀洛国からの回帰である。いつ頃だろうか? 日本書紀から類推すると、この頃か?

崇神6年 (149年) 国内混乱 
垂仁25年 (236年)天照大神を豊鍬入姫命から離して伊勢に鎮座 

天照大神の伊勢鎮座が、高麗加耶の回帰にあたるか? 時期は3世紀である。 日本書紀ある書第一 (高麗加耶)に 天神の子は「筑紫日向高千穂クシフル岳 」に、猿田彦大神は「伊勢狭長田五十鈴川上」に至るべしと ある。 猿田彦大神は伊勢を目指した。高麗加耶=(粛慎+呉+倭)だから、伊勢は呉の故郷だが、案内人は倭だ。

 伊勢内宮に天照大神が祀られる記事は崇神天皇から垂仁天皇の時代に出てくる。天照大神と倭大国魂を一緒に祭っていたが、崇神6年 (149年) 国内混乱、この二つの神はその神の勢いを怖れて共に住みたくないとして分離する。それで、天照大神は「豊鍬入姫命」につけて倭笠縫村に祭り、倭大国魂神は「淳名城入姫命」につける、だが、淳名城入姫は髪落ちて祭ることできず。狗邪系(狗邪=鮮卑+漢)と加羅系(加羅=鮮卑+漢+粛慎)が分離していく過程のようだ。

 倭迹迹日百襲姫命にかかりて、ご神託あり、「これでも収まらず、今度は大物主神が登場、我が子大田田根子を持って大物主神を祭ると納まるとあり、また海外の国もおのずから帰伏する」という。崇神7年 (150年)倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻になった。大神は実は、大蛇だった。それを発見して驚いて箸で陰を突く等、箸墓古墳の由来へと続く。倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼なのか? 

次の垂仁天皇の時代は(加羅=鮮卑+漢+粛慎)の台頭する時期だ。狗邪系のところに加羅系が進出して矛盾は大きくなるか?垂仁25年 (236年)、天照大神を豊鍬入姫命から離して倭姫命につける。倭姫命は大神を鎮座の場所をもとめて宇陀へ。また引き返して、近江に入り、美濃を回って伊勢国へ。このとき、天照大神は 「この神風の伊勢国は常世の浪の重な浪帰する国、傍国のうまし国、この国にいたい」大神の教えのままに社を斎宮、五十鈴川上におく。 

天孫降臨を仕切る神は?

何故、伊勢が選ばれたのか、その答えを自ら答えている。「すなわち天照大神の始めて天より降ったところ」結果、狗邪系から天照大神を離して、加羅系の神として伊勢に内宮を作り、倭姫命が祀ることになった。内宮は加羅系の神となった。だが、日本建国の集団を見ると? 天孫降臨を取り仕切る人物は?、

 古事記 「天照大御神」勾玉、鏡、草薙剣 
ある書
「第一」高麗加耶:「天照大神」 三種の宝物  
「第二」コムナリ加耶:「高皇産霊」天津ひもろき(神の降臨の場所として特別の場所                     「天照大神」 宝鏡
「第四」新羅加耶:「高皇産霊」 真床覆衾(王の即位式の反映)
「第六」加羅:「高皇産霊」 真床覆衾(王の即位式の反映)

天孫高臨時、天照大神が活躍するのはある書「第一」「第二」までである。第六の加羅系になると、もう天照大神は居なくて、新羅系の高皇産霊のみである。第二のコムナリ加耶の場合は、高皇産霊が主導して、天照大神が瞬時、登場する。

天照大神は高麗加耶の神であり、内宮は高麗加耶と関係が深い。狗邪と加羅は、日本書紀編纂時に潜り込んだ。外宮はコムナリ加耶と関係が深い。残る新羅加耶だけが伊勢とは無関係で、つまり、天武天皇や神武天皇と伊勢神宮とは無関係になる。伊勢には高皇産霊は祀られていない。

ちなみに、内宮のご神体は八咫鏡(やたのかがみ)だ。確かに、ある書第一、第二には天照大神と鏡が登場する。「尺瓊曲玉、八咫鏡、草薙剣を賜う。」ある書第四、第六、すなわち、新羅加耶、加羅となると、仕切るのは新羅系の神、高皇産霊で、鏡などなく「真床覆衾」が登場する。外宮のご神体はなにか?第二のコムナリ加耶では、高皇産霊が仕切り、鏡ではなく「天津ひもろき」が登場し、天照大神は鏡を持って瞬間登場する。外宮のご神体はなんだろう? 絹の覆いの中は、やはり鏡なのか?


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